photograph
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当たり前と言えば当たり前なのだけれど、
去年見送った秋がもう一度巡る頃になっても、
彼の小さく、細く、冷たい指先をした手には変わりがなく、
二人の身長差が縮まる事もない。
けれど、寄り添う距離は近付いた。
笑顔を見せてくれる回数も増えた。
一年。
自分が望んで、必死になって丸一年かけて育んできた、
やわらかく儚い、脆いようなこの関係を、
今、自分のこの手で壊そうとしている。
「紺さん?」
「うん?」
「…俺たち、あの事務所、出て行きますね」
言葉ごとに区切って、けれど一息に、はっきりと告げる。
ゆったりとした歩みを止めることなく、紺は流維を見上げた。
その眼は相変わらず穏やかなまま、そこには驚きも戸惑いも現れない。
「…そっか」
「はい」
「他の皆は納得してんの?」
「ええ。たくみとか瀞蘭はちょっと迷ってたけど」
「まぁそれは仕方ないかもね」
さらりと言って、紺は微笑んだ。
たくみにはSHINYA、瀞蘭には姦女という、それぞれに想いを寄せる人がいる。
恐らくそのことを紺は知っていて、だからそんな言葉が出たのだろう。
「…でも、それならいいんじゃない」
「いい、って?」
「あの場所で流維たちがやりたい事が出来ないなら、
他の場所に行くのもまたいいんじゃない、ってこと」
「そうですかぁー?
社長には思いッきり殴られましたけど!」
「あの人はそういう人だろ」
数日前、バンドごと事務所を移りたいと申し出た時に殴られた左頬に、
まだ鬱熱のような痛みが残っている。
紺と繋いだのと逆の方の手でそこを摩りながら、皮肉を込めて言い返すと、
紺はやはり感情を乱さないままで苦笑した。
「…うん。まぁ、覚悟してたんですけどね」
紺のそんな様子につられて、ついそんなことを言ってしまう。
それが全くの嘘という訳ではないのだけれど、
有無を言わさず殴られてハイそうですかと引き下がれるほど、
流維は大人でも、無感情な人間でもなくて。
――だから思わず掴みかかろうとしてしまって、
艶とmasashiに取り押さえられたというのは、
とりあえず内緒にしておくべきだろうか。
「…ねえ、流維」
「はい?何ですか?」
「流維と一緒に歩いてくれる仲間がいるなら、流維のやりたいようにやってごらん。
俺はあそこから動けないけど」
「……紺さんのバカ」
さらりと言われてしまって、流維は小さな声で悪態をついた。
紺があの場所から動けない事なんて、初めから知っているのに。
あの人がいる以上、紺があの場所を離れるなんて在り得ないのだ。
紺を連れて行こうなんて思ったことはないし、
自分も、KAMIYAも、威介でさえも、誰もあの人には敵わないのも、
半ば自棄気味に受け入れた事実ではあるけれど。
それにしても、一年も寄り添ってきた相手との別れを、
紺はこんなにもあっさりと受け入れようとする。
「俺、東京行っちゃうんですよ。多分もう会えない」
「そうだね。会えなくなるね」
「淋しくないんですか?」
「…流維は?」
「淋しいですよ。当ったり前でしょ!」
「俺も淋しいよ」
「じゃあ何でそんな冷静なんですか!」
紺の口振りも表情も、全く淋しがっているようには見えなくて、流維は思わず声を荒げた。
擦れ違うカップルが振り返る。
そんな人目には余り頓着しない様子で、紺はふと足を止めた。
「流維」
「…何ですか」
酷く不貞腐れた様子の流維に少し笑って、紺は池を取り囲む柵に身を預ける。
手招きして流維を隣に座らせると、いくらかの間を置いてから、
紺は小さな子供に言い聞かせるような声を出す。
「…高校の時に、すごい仲良かった奴らがいたの。
でも、卒業してからはみんなバラバラの進路選んで…
流維みたいに東京に行っちゃって会えない奴もいるし、
高知に残ったけど、学校とか仕事が忙しくて会えない奴もいるし。
そうやって…みんなが自分のやりたいことをやれば、
バラバラになるのは仕方ないだろ。
そういうふうになるのが淋しいのは俺だって誰だってそうだけど、
俺はそこに囚われて動けない人間にはなりたくないよ」
「…でも、紺さんちっとも淋しそうじゃない」
「ま、流維よりは年食ってるからね。年の功じゃない?」
「そんなんで淋しさ打ち消せるはずもないでしょ」
「どうかな」
言い返した流維に、曖昧と言うよりは宥めるような微笑を返す紺。
何時もの事ではあるけれど、不当に子供扱いされたような気がして、流維は口唇を噛んだ。
紺の紅い髪から視線を外して遠くを眺める。
そのまましばらく沈黙が続いて、不意に、流維の手に僅かな力がかかった。
紺の細い指から感じる、温かい圧力。
「紺さん?」
「…俺に言われるまでもないと思うけどさ」
「何ですか?」
「うん…やりたいことがあって、それができそうな場所と余裕とチャンスがあるっていうのは、
すごく恵まれた事だと俺は思うよ」
「それは分かってますよ」
「だから、頑張っといで。あんなに仲良しなメンバーもいるんだし」
「…分かってます」
「俺はここから見てるから」
「…分かってます」
同じ答えを鸚鵡返しに繰り返す流維に、何度目かの苦笑を覗かせる紺。
何だか子供みたいな気分で、泣きそうになってしまった流維に気付いたのか、
かれは優しく流維の手を握り直した。
「少し歩く?」
「歩きます」
「流維、変なの」
全く自分の言葉を返せない流維を、紺は声を上げて笑う。
けれどそれは、決して馬鹿にするような、不快な笑い方ではなくて。
そんな笑い方の出来る紺は、やっぱり凄いひとなのだろうと思う。
――やっぱりこの人にとっては、自分はまだまだガキなのかもしれない。
「…紺さん、ありがと」
「え?何?」
「…何でも無い」
小さく呟いた言葉に聞き返す紺に、流維はようやく笑顔を見せた。
手の中の小さな温もりを強く握って、ねえ、と話を変える。
「紺さんとさ、写真、いっぱい撮ったよね」
「ね。プライベートであんなに一緒に写真撮ったの、流維くらいだよ」
「え、マジですか?ホントに俺だけ?」
「うん、本当。…そんなことでそんなに喜ばないで」
「だって、威介さんとか遊汝さんとか、それに社長もだけど、紺さん狙ってる人多過ぎだから!
紺さんにとっては“そんなこと”でも俺にとっては重要なことなんですよ?」
「…若いね、流維は」
「そういう枯れ果てた発言しないで下さいよ!」
やっと普段の調子に戻って力説する流維に安心したのか、
紺は穏やかな口調で、軽い揶揄いを投げかけてくる。
言い返して笑う、その反面で、流維は紺と過ごしてきた日々を思い出していた。
――初めて手を繋いだのも、確かこの公園だ。
枯葉の敷き詰められた道を歩きながら、さりげなさを装って手を握った流維を、
紺は一瞬驚いたような顔をして――けれど、ただ静かに受け入れてくれた。
それから、この公園を通る時は手を繋ぐのが二人の約束事のようになっていて。
冬の寒い日、わざわざここを歩いて帰る途中、寒いねと言った紺に、
紺さん俺があっためてあげますよ、と答えて抱き締めたこと。
俺たち、恋人同士に見えるかな?
そう言ってはしゃぐ流維を見て、紺は優しく微笑っていた。
紺が小さな声で答えてくれた言葉は、今でも忘れられない。
…それも良いよね。
「ね、紺さん、写真ちゃんと持ってる?」
「持ってるよ」
「じゃ、それが俺だと思って大切にしてくださいね?」
「流維って…結構恥ずかしい事言うよね」
「何でですかー!会えなくなっちゃうんだからそれくらい当然でしょ!」
はぐらかすような紺の言葉に、駄々をこねるみたいにして言う。
はいはい、と子供をあやし慣れた母親みたいな反応を返して、
一瞬置いてから、紺はにっこりと微笑んだ。
「…分かったよ」
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――あの日そうして別れたまま、流維たちはあの事務所を後にして、
東京に越してきた。
La'Muleのことは雑誌でよく見かけるし、紺から何度かメールももらったが、
実際には紺とは一度も会っていないし話してもいない。
それでも流維の部屋には、数枚の写真が飾られていた。
全て紺が、或いは紺と流維が映ったものだ。
全てが思うように行くはずもなく、
苛立ち、失望し、無力感に苛まれる事もあるが、
そんなとき、不意に紺の言葉を思い出す。
優しい声で、優しい口調で、諭すように告げられた言葉。
やりたいことがあって、それができそうな場所と余裕とチャンスがあるっていうのは、
すごく恵まれた事だと俺は思うよ。
だから、頑張っといで。あんなに仲良しなメンバーもいるんだし。
俺はここから見てるから。
「…頑張ってますよ?」
部屋の壁に留めた写真に、そっと呟く。
桜の咲く季節、紺がここが一番綺麗だと言った桜の木の下で、二人で撮った写真。
あの頃の二人には、行く手を違える夢は無くて、別離の影など姿を見せず、
ずっと二人で一緒にいられると思っていた。
今でもあの甘い優しい恋を思い出すと胸が痛んで、涙が溢れることがある。
けれど、今、こうして頑張れる力は、紺との日々があったからだと。
自分よりもずっと大人で、穏やかで、時折弱さも見せる紺と居て、
感じた事や考えさせられた事の全てがあって、今の自分が在るのだ。
だから、今もずっと、終わった恋に想いを馳せている――
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Ashの名曲「photograph」を元に書いてくれました。
一見するとちょっと可笑しい歌詞なんだけど、
でも実はかなり深く突き刺さる歌詞だと思う…あれは。
私はお返しにこの話で漫画を書いて、あげたよね。あれはショボくてごめんぞ。
穏やかさの背景にあるもの悲しさがよく出てるSSだよ〜。
現実はどうあれ、「叶える為に選んだ“別れ”」、そう信じていたいです。
<のち>
2001.0513
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